止まった時間

──いつからだっただろうか?
永遠に曇った空、永遠に無音の空間、永遠に止まったままの人々。
原因は全く分からない。だが、言えることはある。
この世界はある日突然、時間が止まってしまったのだ。

何度も泣いた。寂しくて堪らないと。
何度も嘆いた。何故自分と同じ人がいないのかと。
そして何度も願った。誰でも良いから、瞬きをしてくれと。

もう二度と、誰とも言葉を交わすことなど無いのだと思っていた。


人々が再び動き出すことはもう無い。そう思い、諦めていた愛子は淡々と食事を
済ませた。
何故だか分からないが、自分と共に動き続ける存在が唯一あったのだ。
それは、『水』である。
そのお陰で、最低限の食事を取り、生き抜くことはできていた。
一生こんな状況なら、死んでしまった方がマシだと何度も考えたことがあった。
しかし、包丁を自分に向け、長時間睨めっこをしても結局恐怖心が勝ってしまう。
食べるのを止め、飢え死にでもしてしまえば良いと思ったこともあった。
だがそれも、『食』という人間の三大欲求に勝つことはできなかった。
結局自分は死にたくないのだと実感したのである。
もう人々は動くことがない。そう諦めているつもりではいたが、心の何処かでは
「いつかきっと…」などと信じてしまう自分がいたのだ。
だからきっと、愛子は今もこうして生きながらえているのだろう。
恐らく、12年はずっとこうして生きている。
そう考えると、愛子はもう24歳ということになる。
既に半分の人生を、ずっとこの状態で送っているのだ。
周りに人がいない訳ではない。けれども、味わうのはとてつもない孤独感。
これほど奇妙なことはないだろう。
自分が他人と最後に言葉を交わしたのは、まだ小学生の時だった。
あれから愛子は、身も心も大人へと変わってしまった。
恐らく協調性には欠けるが、思考は少なくとも12歳の自分とは異なるだろう。

皆外出していた為か、家には誰もいなかった。
そして、誰も帰ってくる事は無かった。
父は仕事場であることに間違いは無いが、母は何処へ行ったきりなのか
分からない。
大切な友達でもあり、親友でもある真希は小学校の校舎にいた。
彼女の顔を見に行くたびに、もうあの甲高い声を聞くことが出来ないのかと
思うと、涙が込み上げてくる。
…愛子は、無意識に学校の校庭へと足を運んでいた。
誰とも会話なんてできない。それに、この光景を一体何年見続けてきたことか。
それでも、愛子はこうして度々足を運んでは物思いに耽るのであった。
そして、愛子にとって兄の様な存在でもあり、愛子の好きな人でもある
幼なじみの悠人。
彼は学校の校庭でサッカーをしている最中であった。
キーパーで、手にグローブをはめ、遠くを真剣な眼差しで見ている。
ずっと険しいままの表情。そんな悠人の表情を愛子は大好きだった。
けれど、彼女が今一番見たいのはその顔では無かった。
「悠人…。あんたの、笑顔がアタシは見たいのよ…。」
そっと彼の頬に触れてみる。
…それは、まだまだ幼い12歳の少年の頬。
こんなに近くで見ているのに、あんたは私のことなんて見えていないのよね。
そんな風に呟くのも、きっとこれが初めてでは無いだろう。
悠人の方がずっと背が高いはずだった。
だけど、今では愛子の方がずっと、ずっと大きかった。

空いたままの自動ドアからスーパーの中へ入る。
夕飯の為の食料調達である。
レジ袋を取り、カップラーメンやら野菜やら日用品やらを次々と放り込む。
ある程度一周し、必要な物が全て袋に入っているかを確認すると、
レジの前を通過し、何事も無かったかのようにスーパーを後にする。
…始めは流石に、何も支払わずに物を取っていくのには抵抗があった。
そのため、計算した後丁寧にレジにお金を入れていた。
しかし、もうここ何年かはそんなことなどしていない。
このようなことをする期間があまりにも長すぎるせいか、罪悪感すらも薄れてしまったのだ。
愛子自身は、この行為と『盗み』とを区別してもらいたいと思っている。
しかし端からみれば、これは立派な『万引き』に相当してしまうであろう…。

家に帰り、夕飯を作り、食べる。
風呂には何年も入っておらず、ぬるい水が出るシャワーで体を洗う。
歯を磨いたら、そのまま布団へ直行。
こうして、何も起こらない、平凡にすら至らない無意味な一日を終える…。

周囲にとっての『今日』という日はたしか、1997年9月21日。
自分にとっての『今日』は恐らく、2009年ほど。
何月かはもうずっと数えていないので分からない。
自分の誕生日を祝って貰ったのも、何年前のことだろう。
今では、自分の誕生日がいつなのかすらも、忘れてしまっていた。
もう、二度と祝ってもらえないから。だから、もうそんなことは自分にとっては
堂でも良いことなのである。

こんなことは何年ぶりだろうか。
ある日突然、自分の身に感情の波が押し寄せてきたのだ。
誰かと話したい…。せめて誰かにこの辛さを共感してもらいたい…。
孤独で苦しい…。寂しい…、寂しい…、寂しい…。
涙が止まらない。誰が聞くわけでもないのに、声を押し殺してひたすらに泣いた。
どれだけ泣いても、どんなに苦しくても、誰も慰めてはくれないというのに。

そして今日もまた、愛子は校庭に来ていた。
真希の顔を少し見てから、悠人の前に立つ。
また、彼の頬にそっと触れてみる。
ちょっとの寂しさならこの前にも感じていた。
だけど、今の気持ちはちょっとでは済まなかった。
…感情の波は、限界に達する。
「ぅっ、ぅっく…。うわあああああーん!! あぁあぁああぁあーん!!」
声を押し殺して泣く程の気力もなく、叫ぶように泣く。
誰も、慰めてはくれない。目が腫れて、瞼が重くなる。
どれだけの時間泣き続けたのだろうか、愛子はまだ悠人の前に立っていた。
俯き、瞬きをすると涙の雫が地面に零れ落ちた。
泣きすぎて、息をするのが苦しい。
少し経ってから、愛子は俯いたまま帰ろうとした。
…その時だった。
「…愛子。もう泣くなよ。俺が慰めてやるから…、な。」
自分以外の声がした。
咄嗟に愛子はその声の主を捜す。
すると、そこには瞬きをする少年の姿があった。
「ずりぃぞ愛子っ! 俺よりも背高くなりやがって!」
にっと微笑む少年。
その笑顔は、もう二度と見られないと思っていた笑顔だった。
驚きと言うよりも、信じられなくて声が出ない。
視界がぼやけ、目の動きもおぼつかなくなる。
「悠人…。」
やっと声を絞り出すと共に、震える手を動かし、再び彼の頬に触れる。
…暖かい体温を感じ、胸の奥がきゅっと苦しくなった。
「なんで愛子がそんな顔してんのかも、なんで愛子が俺より大きくなってんのか
も、そんなこと全く分からないけど。とにかく、辛かったんだよな…。」
悠人がぎゅっと強く抱きしめる。
自分よりもずっと小さな少年の体。
それでも、空っぽだった心の透き間はあっという間に満たされていく。
「ごめんな…。一人にして……」
悠人が愛子の背中を優しくさする。
それはまるで、お母さんが赤ん坊をあやすときのそれと似ていた。
「うわぁあぁあああーん!!」
再び涙があふれ出す。
自分の姿は以前とは全く異なる上、悠人にとってはついさっきまで会っていた存在に過ぎないはず。
それなのに、何故彼はこんなにも平然と接してくれるのだろうか。
…その理由は、分からない。
だけど、今はただ長年の孤独感や辛さを癒してもらいたかった。

少しして、悠人から体を離した。
気が付くと試合は再開しており、慌てて校庭の隅に向かう。
動いているのは自分だけではなく、そして悠人だけでもなく、
周囲の全ての光景が、動き出していた。
それは本当に突然のことだった。
突然、全ての『時』が流れ始めたのである。
何十年も昔に録画したビデオテープを懐かしんで見るように、愛子はその光景を
黙って眺めていた。

試合が終わるとすぐに、悠人がこちらに向かって走って来た。
「なぁ…、愛子。今日がいつだか…分かってるよな?」
心に落ち着きを取り戻した途端、質問され暫し狼狽える。
「えっ、えと。確か1997年の…」
西暦を言ったことに悠人は一瞬ぽかんとしていたが、すぐに笑顔を見せる。
「忘れちゃったのか? 今日は9月21日だ。これから一緒に帰る最中に渡そうと思ったんだけど…、
いいや。早く渡したいんだもん。今渡す。」
そう言うと、悠人は大きな包みを強引に愛子の手に乗せた。
「えっ…? 何、これ…。」
愛子は包みと悠人を交互に見やる。
すると、悠人は照れながらそっぽを向いた。
「た、誕生日プレゼントに決まってんだろーが! バーカ!」
そう言われると共に、愛子は自分の誕生日が今日であることを思い出した。
プレゼントを貰うという久しぶりの出来事に、愛子は堪らない気持ちになる。
「やっと、愛子も12歳になったんだな!」
悠人はきっと何の他意も無く言ったのだろう。
なんだか可笑しくて笑ってしまった。
「はは…、良かった。…きっとこの先、大変…、だよな。」
何に対してそう言ったのかは分からない。
けれども、愛子は黙って次の言葉を待った。
「でも、俺は協力してやるからさ。何があったのかは分からないけど…、
俺は全部信じるよ。受け止める。姿は変わっても、愛子は愛子だから。」
その言葉に、愛子は無言で頷いた。
そして同時に切ない気持ちがどっと押し寄せる。
自分がこうなってしまった以上、悠人と同じ『時間』を歩き、同じ『道』を
歩むことはできないだろう。
きっと同じ悩みや苦しみを共有し合うということも難しい。
しかし、時は流れる。もう止まったりはしない。信じれば、きっと。
「愛子。誕生日、おめでとう。」
愛子は俯くことをやめた。
時が流れれば、傷も癒える。傷を作るのが時であるのならば、
それを癒すのも時なのだ。
これも運命である。悠人が受け入れられるのならば、自分に受け入れられない
はずがない。
「ありがとう、悠人…。」
曇り空は表情を変え、夕日が二人を暖かく包み込んでいた。




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