色鉛筆-第4話-

郁夫に姉の話を打ち明けてから、もうすぐ一週間が経つ。
・・・あれから、郁夫は一度たりとも公園に姿を見せなくなってしまった。
きっと、今日も来ていないのだろう。・・・そう思いつつも、律子の足は自然といつもの場所へ向かっている。
空を見上げると、青い空に包み込まれ太陽の光が律子を強く照りつけた。
春を感じさせる、暖かな気候。辺りはこんなにも晴々しく新たな季節を迎えようとしているのに、
律子の気持ちはそれとは真逆だった。
あの日のことを幾度となく思い出しては、後悔の念に駆られる。
「あの話をしていた時、郁夫さんの様子が明らかに変だった・・・。何でだろう・・・。」
兎に角、あんな話、しなければ良かったんだ。
そう呟こうとして、飲み込む。呟けば、きっと涙が零れてしまうから。
それでも、次から次へと頭の中には色んな想いが浮かんでは消えていく。
彼はもう、来てくれないのだろうか? もしかしたら、自分と会いたくないのかもしれない。
そう思うと恐怖心で、途端に足が進まなくなってしまう。
そして同時に、「彼ならきっと聞いてくれる、きっと私を前向きにさせてくれる・・・。」
なんて勝手に期待していた自分が恥ずかしくなるし、虚しくなった。

あれこれ考えながら歩いていたら、いつもの場所手前の階段まで来ていた。
・・・きっと、今日もいないだろう。
もしかしたらいるかもしれない。だなんて期待すると、現実を見た時落胆することになる。
ここ最近はずっとこんな調子だった。
だから今日は、期待しない。飽くまでも平然に、ただ何となく来ただけと言うつもりで・・・。
律子は下を見る。ただ階段だけを見つめ、ゆっくりと登る。 そして最後の段を強く踏み締めると、顔を上げた。

・・・そびえ立つ木の影に、彼の姿が・・・
律子は驚くあまりにあっと声を上げそうになった。それを慌てて押さえる。
彼は手すりに手をかけ、呆然と景色を眺めているようだった。
その姿はいつもと同じように見えて、何故だか少し違っているようにも見える。
季節の変わり目ということもあるのかもしれないが、いつもの彼はポンポンの付いた
ニット帽子を深々と被っていた。しかし今日はそれが無い。
髪は栗色のショートで、癖っ毛のせいか髪の先端は外に向かって軽く跳ねている。
もともと中性的な顔立ちをしている人ではあるが、今日は何だかとても女性的に見えた。
帽子が無いだけでこんなにも印象が変わるのかと不思議に思いつつ、こんな状況にも関わらず
彼に見とれてしまっている自分が何だか恥ずかしかった。
表情には、あの話をした時と同様何処そこに『憂い』を含んでいるように感じられた。
声を掛けようにも、何だか掛けづらい雰囲気である。
律子はどうしたら良いのか分からず、立ち往生していた。
すると、彼がこちらを向いた。ばっちりと、目が合っている。
律子の体は硬直した。
「あ、あの・・・」
すると、郁夫は一瞬驚いた表情になった後、すぐに笑顔になった。
あぁ、この笑顔。たった一週間見ていないだけなのに凄く久々のような気がする。
そんな幸せな気持ちもつかの間、郁夫の態度は白々しいものだった。
「あぁ、・・・すみません。場所、占領していましたね。私はそろそろ帰るので」
彼はそう言ってお時儀をすると、地面に置いていた軽そうな鞄を取って律子の横を通り過ぎた。
いつもなら、キャンバスやらスケッチブックやらで嵩張った鞄を持ってくるはず。
なのに、今日のバッグは外から見ても分かる。・・・明らかに、それ等が入っていない。
「ちょ、ちょっと待って!!」
思わず、声を荒げて郁夫の手を掴んだ。
郁夫は怪訝な顔をして振り向き、掴まれた手首を見た。
暫しの間、互いに沈黙する。郁夫が苛立っているのを、空気で何となく感じた。
「あ・・・、すみません。」
律子は慌てて手を離す。郁夫はそんな律子の目を怪訝な顔で見ていた。
「私に何か用ですか?」
律子は硬直した。本当に、何かがおかしい。
別の時空にでも転移してしまったのだろうか。そう思ってしまうくらいに奇妙で、何かが違っていた。
「え、あの・・・。」
頭の中がごちゃごちゃして、纏まらない。兎に角、この状況が理解できない。
「何も無いなら、行きますよ。」
そう言うと、郁夫は再び律子に背を向け、歩き出す。
このままだと、本当に彼に会えなくなってしまう。何がなんだか分からないけど、そんな気がした。

「待ってよ、郁夫さん!!」

律子は彼の名を呼んでいた。
その声は、公園の隅から隅にまで響き渡るほどだった。
・・・郁夫は足を止めた。
彼は再び振り向いたが、彼は目を見開き、驚いたような表情のまま硬直していた。
「この前は、あんな話をしてごめんなさい。だけど私、これからもずっと郁夫さんと会っていたいよ・・・」
律子の目から涙があふれ出した。
しかし、郁夫はそれに反応することはなく、表情も変わらなかった。
ただ、彼の握り締めた手が震えているように見えた。
「郁夫さん・・・。また、私の絵を描いてください。」
涙を止めようとしても、どうにもならない。だから、流れたままでもせめて笑顔は見せようと思った。
ぐちゃぐちゃな顔になっても、何でも構わない。何故彼が怒ったのか、今はまだ何もかもが分からないまま。
それでも何でも良い。兎に角、彼を引き止めたかった。

「あなた、誰なの?」
突然、耳を疑うような言葉が聞こえた。
この場には今、自分と郁夫以外誰もいない。
だから、その言葉は自分以外の誰に向けたものでもない。
律子は彼を見た。
驚き、怒り、悲しみ・・・いくつもの感情を混ぜ合わせたような複雑な表情をしていた。
彼の目線は律子一点に集中している。
律子自身をしっかりと見つめてくれたのは、一週間ぶりである。 ・・・しかし、以前のそれとは全く違っているが。
「私は、橋本律子です。毎日会ってたじゃないですか・・・。忘れちゃったんですか!!」
問いただすように声を荒立てて言う。
しかし、今日の彼には何も通用しないようだった。
声を荒立てた律子と同様に、郁夫も声を荒立てると、律子の両肩を強く掴んだ。
「何で・・・あなたが郁夫のことを知ってるの!? 郁夫は・・・今、どうしてるの・・・。」
そしてその後、郁夫は律子に力なくしな垂れて嗚咽を漏らし続けた。
律子はただ呆然とそんな彼に肩を貸していた。
彼・・・じゃない、性格には彼女。この時律子は今日の『郁夫』が、『郁夫』でないことを知った。
この人は、『別人』である。何が何だか分からない。だけど、兎に角この人は郁夫ではない・・・。
「うっ・・・。」
彼女は一しきり泣くと、頭を抱えて辛そうに唸った。
「郁夫は・・・、きっと生きてる・・・。」
最後にそう呟いた後、律子の胸の中で気を失ってしまった。

数分、数時間とそのまま呆然としていた。
郁夫が郁夫ではないこと。これまで会っていた郁夫という存在は一体何だったのか。
目の前で気を失っている郁夫の姿をした彼女はいったい誰なのか。
彼女の発する意味不明な言葉の数々は一体何なのか・・・。
律子はそのまま、もぬけの殻状態で、その場から動くこともできなかった。







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