色鉛筆-第3話-

――「会いに行きます! 毎日でも!!」

郁夫と約束したあの日から、二人は毎日のようにあの公園で会うようになっていた。
郁夫は会うたびに『律子の絵』をプレゼントしてくれる。
しかし始めは恥ずかしくて中々その絵を直視することもできなかった。
そんな律子を見た郁夫は、
「……ごめん、もしかして嫌だった?」
と、とても悲しそうな顔をするものだから、慌てて否定する。
そんなやり取りをこれでもかというくらい繰り返していたが、こういったやり取りも
決して嫌いではなかった。
恥ずかしさよりも嬉しさの気持ちが上回るようになった頃、漸く律子は
郁夫の絵を素直に受け取ることができるようになった。
そんな律子の心の変化を郁夫は感じ取ってくれたようで、
「……もっと、君に喜んでもらいたい。何か、好きな物を言って。」
と聞いてきては、その絵を描いてプレゼントしてくれた。

毎日会うようになってから二週間くらいが経ったのだろうか。今日も律子は郁夫と公園にいた。
…そんな、ある日のこと。
プルルルル…
律子の携帯が鳴った。
電話をするのは苦手なため、友達からということは稀である。
企業からも合格の電話など一度たりとも来たことが無い。…不採用ならあるが(わざわざ律儀に…)。
……しかし一体、何だろうか?
電話というものに良い記憶はない。だから、出るのは億劫だった。
「携帯、鳴ってるみたいだけど…出なくて大丈夫?」
着信音を無視し、ただ中空を見つめる律子。
そんな律子の様子を気にしてか、郁夫は顔を覗き込んできた。
「……出なくても大丈夫です。って、え」
気付くと、ついさっきまで重たい感覚だったポケットが軽い。
すぐ隣を見ると、郁夫は真剣な表情で携帯の画面を律子に向けていた。
「企業からじゃない? 兎に角出てみなよ。」
画面に表示された企業名を見る。…以前受けたタウン誌の企業からだった。
「な、何だろう…。」
不安になりつつも、郁夫から携帯を受け取ると通話ボタンを押し、受話器を耳に押し当てた。
「……はい。」
「もしもし、橋本律子さんのお電話で宜しいですか?」
受話器の向こうから、明るくハキハキとした声が聞こえてくる。
律子は礼儀正しさを取り繕い、「はい。」と歯切れよく答えた。
「こちら株式会社タウンヒューマニティ人事部の津久田と申します!
この度は一次面接の選考結果を報告させて頂く、お電話致しました!」
この企業の人事部は皆明るくて、一つ一つの語彙をハッキリと話す。
こうした企業の人間は、不採用の場合であってもこのままの口調で明るくハッキリと
「誠に遺憾ではありますが…」と言うものだから、本当にタチが悪い。
といっても、良くない連絡を聞くことなんてもう慣れっこなのだが。
どうせ今回もだろう…と思いつつ、再び歯切れよく「はい。」と返事をした。
「では早速一次面接の結果ですが、…合格とさせて頂きます。二次面接は―」

「へっ!?」

唐突に、変な声を出してしまう。
…一次面接、合格?
隣にいる郁夫からの視線を感じる。しきりに電話の内容を気にしてくるが、
何となくそんな彼に背を向けて電話を続けた。
「あ、聞き取りにくかったですかね。一次面接は合格です! 二次面接についてですが、
日程は今から2週間後の3月25日で、会場は前回と同じ場所になります。
持ち物は筆記用具と成績証明書をお願いします!」
「あ……は、はい! 分かりました。よろしくお願いします。」
そして、「失礼します」と電話は切れた。
それからも律子は数分程、呆然としていた。まるで宙に浮いているような感覚。
『合格』の言葉があまりにも自分に馴染まず、夢じゃないかと疑ってしまう。
「郁夫さん、ちょっと頬を叩いてもらえますか。」
不思議そうに律子の顔を覗き込む郁夫に要求すると、彼は大きく目を見開いて
「できないよ」と強く首を横に振った。
「ここが現実である実感がわかないんです。だから、お願いします…」
郁夫に目を向けずに、ただ中空を見つめたまま言う。
仕方ないと折れた郁夫の手がこちらに伸びてきた。
そしてそのまま叩かれ―
ぐにっ
「うぁっいたたたた!!」
横から伸びてきた手は律子の頬を力いっぱいつねった。
彼なりの気遣いだったのだろうが、とてつもなく痛い。これだったら叩かれた方が
マシなんじゃないかと思えるくらいに…。
「げ、現実だ…! やった…初めて、面接通った…! 郁夫さん!!」
郁夫の方を向くとすぐさま目が合う。彼はただ笑顔で頷いた。
どうやら、律子の反応で電話の内容が読めていたらしい。
「おめでとう!」
彼の言葉で、「合格」が現実味を帯びてくる。
そして次第に律子の胸が喜びで満たされてくるのが分かった。
「や、やったぁ〜!!!」
喜びをどう発散したら良いのか、どこにぶつけたら良いのか分からず、
咄嗟に郁夫に抱きつく。
自分でも、積極的なことをしていると自覚している。
それでもこの喜びをどうしても彼と分かち合いたくて、こうでもしなければ
律子の気持ちは治まらなかった。
彼の手が律子の背中に回された。
……優しくて、暖かい。
そして二人は、どれだけの時間そのままでいたのだろう。
名残惜しくも互いに離そうとした時、郁夫は律子の髪を撫でながら耳元で優しく
「本当に、おめでとう。」
と囁いた。
……あぁ、幸せだ。私は本当にこの人のことが、凄くすごく好きだ。

「次に会う時、ご褒美に絵をプレゼントするよ。…今度は何を描いてもらいたい?」
互いに赤面しながら暫く沈黙の時間を送った後、それを破ったのは郁夫だった。
律子は鞄から手帳を取り出し、ページをめくる。
―5月のページで、手は自然と止まった。
…5月3日は、姉の命日だった。
このページに、姉の写真が挟んである。
写真には正に今この公園の、この場所でほほ笑んでいる姉の姿があった。
ずきん。
姉の顔を見ると胸が痛み、思わず歯を食いしばった。
…いつまでも過去に背を向けているわけにはいかない。
郁夫に姉の絵を描いてもらうことで、少しでも前向きになることができるのではないだろうか…。
律子は思い切って姉の写真を手に取り、郁夫に見せた。
「……この人を、描いて下さい。」
郁夫は静かに、律子から写真を受け取る。
「…幸せそうだね。この桜の木と、とても雰囲気が合ってる。」
姉の写真を見た郁夫は、優しく微笑んだ。
「その人、私の姉なんです。描いてもらえますか?」
「やっぱり、お姉さんだったのか。何となく似てるような気がしたんだよ。
…描かせてもらえるなんて、嬉しいよ。…ありがとう。」
郁夫は真っ直ぐこちらを見てほほ笑むので、思わず律子もほほ笑んだ。
「…私の姉も、絵を描くのがとても好きでした。といっても、専門は油絵だったんですけど。
でも何だか、優しいタッチや色遣いだとか、郁夫さん自体もどことなく、姉と雰囲気が似ていて。
だからなのか分からないけど、あなたといると何だか凄く安心します…。」
そう言って律子は彼の手を取り、優しく握った。
するとすぐに握り返してくれて、その暖かさが堪らなく嬉しい。
「女の人に似ていると言われるのも何だか複雑なものだけど。」
郁夫はそう言った後、「とか言って」と悪戯に笑った。
それから互いに無言のまま、暖かい時間が静かに流れる。

少しして、律子は迷いながら口を開いた。
「…私の姉のこと、聞いてもらえますか? あなたになら、話しても良い気がする。
過去のことも、これで忘れられるような気がするんです。」
彼の目を見ず、ただぼんやりと中空を見つめる。
「…何かあったの? 俺に話してくれるなら、…」
郁夫は言葉を詰まらせた。
やはり暗い話などしない方が良いだろうか…。そう迷っていると、郁夫は
再び口を開き、「話して」とだけ言った。
それを合図に、律子は口を開く。
「私の姉…恵理子は3年前…、大学4年の時に就職活動を勧める親の反対を振り切って
美術を学ぶ為に専門学校を受験することに決めたんです。というのも、彼女は元々美大に
進学したいと言っていたんですが…、そんな所に通ったところで将来働く当てが見つかるわけないって、
親が猛反対したんです。その時は美大への進学を已む無く諦めていました。
だけど、大学4年間、姉は自分の気持ちに嘘をついてるとずっと苦しんでいて…。
その苦しみを私にもよく漏らしていました。」
そっと隣を見てみると、郁夫は静かに恵理子が映る写真を見つめていた。
その表情からは何を考えているのか読みとれない。ただそれは『憂い』を含んでいるように思えた。
彼に多少違和感を感じつつも、律子は続けた。
「姉は、自然の風景を描くことが好きでした。あとは、きっと親から離れたかったからなんだと思う。
田舎の専門学校へと進学して家から早々と出て行き、それからは連絡が取れなくなりました…。
それから半年だったか、3ヵ月くらいだったか、ある時ニュースで」

「やめて、くれないか」

「姉の名を見たんです」

突然、言葉が重なった。
律子は咄嗟に隣を見た。
彼は立ち上がっていたのか、すぐ横を見ても視界に入るのは彼の足もとだけだった。
律子は状況が読みとれず、無意識に言葉を続けていた。
「姉は、死ん」

「やめろっ!!」

瞬間、景色が凍りついた。
ついさっきまで優しく吹いていた風も、ピタリと止まってしまった。…ような気がしただけかもしれない。
律子は反射的に口を閉ざし、目を見開いたまま彼を見つめた。

―それから10分は経っただろうか? もしかすると、そこまで経っていなかったのかもしれない。
どこまでも永遠に凍りついた空間が続くのではないだろうか。そう思えるほどにこの時間は長く感じられた。
・・・そんな時だった。
「うっ…」
郁夫は頭を抱え、その場にしゃがみ込んだ。
律子は戸惑いから、ただその姿を見つめていることしかできない。
程なくして郁夫は静かに立ち上がり、頭を抱えたまま律子に目を向けることも無くどこかへと姿を消してしまった。

・・・何十分、何時間も律子は呆然と彼がいなくなった方向を見つめ続けていた。
きっと錯覚でしかないのだろう。それでも、暫くの間その背中が見えているような気がしてならなかったからだ。







Mainへ戻る

Topへ戻る