色鉛筆-第2話-

郁夫と会うと約束した日まで、あと二日。
この日はK社の企業説明会で、時間は14時から16時半までの二時間半だった。
自分がどこに行きたくて、何がやりたいかなど全く分からない律子にとっては企業説明会なんて
面倒なものでしかなかった。
しかし、今は何となく違う。
明後日には楽しみなことが待っている…。
そう思うと不思議なことにやる気が湧いてきて、この説明会の時間も充実したものに変わっていった。

時の流れに多少のじれったさを感じつつも、郁夫と会う日はあっという間にやってきた。
とはいえ一番長いのは当日の、会うまでのこの時間である。
律子は今、D社の一次面接会場にいた。
D社はあらゆる地域の情報を扱うタウン誌の企画・編集・発行を行う会社である。
律子がこの会社を受けた理由は単純明快で、「家から簡単に通える距離にあるから」というのと、
雑誌の取材や編集の仕事ができたら楽しそうだと何となく思ったことで、それ以上に特別な志望動機はない。
最近はヤケになっていろんな企業にエントリーをしているため、このD社も律子にとっては『なんとなく』の一つに過ぎなかった。
待ち会い室の座席に腰をかけ、ネームプレートを付けると自分が呼ばれるのをじっと待つ。
周りの就活生たちを見ると、皆緊張しているのか落ち着きなく手帳のページをめくったり、
面接対策の本を必死に読んでいるようだった。
そんな中律子は場違いなくらいに落ち着いていた。
『これを乗り越えれば、郁夫に会える。そのための試練だ。』
と、そんなことを考えているくらいだった。
それからほどなくして採用担当の人が待合室に入り、律子を含む5人の名前を呼んだ。
別室に案内すると言われ、律子たちはその後に続く。
エレベーターに誘導された後、その密室には緊張感と静寂が浸透していった。
その空気を和らげるように、採用担当の人が笑顔で「緊張していますか?」
と聞いてきた。
周りは緊張のためかぎこちない笑顔で返すのみだったため、
律子が「はい」と笑顔で答えると、「あまり緊張しなくて大丈夫ですから。落ち着いて、自分を出して下さいね。」
と優しく返してくれた。
いつもは面接となると、緊張して頭が真っ白になってしまう。あらかじめ言う内容を文にして
暗唱しようとしているくらいだった。
しかし、今回は特別そういった準備をしているわけではない。
何故だかいけそうな気がしていたからだ。 とはいえ、緊張はしていないつもりだったが多少なり心臓が高鳴ってくる。 しかしそれは今の律子にとってとても気持ちの良い緊張感だった。
エレベーターが開き面接室の前へと誘導され、人事の人に頷かれると律子が先頭となり、面接室のドアをノックした。
「どうぞ」という声が返ってくると、律子は大きく深呼吸をしてドアを開けた。

それから1時間、律子は軽い足取りで公園へと向かっていた。
郁夫に会うための試練は乗り越えた。手ごたえは、可もなく不可もなくといったところで、
聞かれた質問は「自己PR」や「学生時代に頑張ったこと」など、今まで散々他社で聞かれてきた
ことと同じような内容だった。
しかし、大抵の企業は一次面接で志望動機を聞いてくるのだが、今回の企業は特に聞いてくることはなかった。
何はともあれ、第一志望などない律子にとっては、次の企業に意識を向けつつ結果を待つのみである。

そして今は、12時。
郁夫は夕方にと言っていたので、大分早く着いてしまう。
それでも、律子の足は勝手に公園へと向かっていくのであった。

丘をひたすら登り、公園に着くとそこから更に公園内の階段を登りきるとすぐ正面に大きな木がある。
こここそが郁夫と初めて出会った場所であり、約束の場所だ。
時計を見ると、まだ13時を過ぎたばかりといったところだった。
もちろん、郁夫の姿はまだ無い。
律子は昼ごはんのレジ袋を地面に敷くと、木に腰かけた。
ここからの景色を眺め、優しい風に吹かれながら昼食を取っていると
眠気を催してきた。
大好物のパスタサラダを完食した後、少し目を閉じてみる。
春の匂いを感じさせる風はとても心地よく、それはまるで夢の世界へと
導くかのように優しく律子の体を包み込んだ。

――太陽の光が強く照りつける。
普通なら眩しくて堪らない程だが不思議と目は自然に開いた。
「ここは…どこ?」
周りには何もなく、ただ光と律子だけがそこに存在しているよう。
地面すらもないため、宙に浮いているような感覚だった。
前も後ろも、右も左も、何もかもが分からない。
確かなのは、自分自身ががどこかへと向かっていることだった。
すると突然、光の中から抜け出すと今度は景色が目の前に広がった。
「私の…家?」
ぼんやりと 曖昧な景色だったが、つぶやいた途端に鮮明なものとなった。
まるで律子の言葉に呼応するかのように、その景色は自分の家へと姿を変えた。
リビングを想像すると、目の前の景色もリビングに変わる。
思いのまま姿を変える景色に戸惑っていると、無意識にある部屋へと向かっていることに気付く。
…… 姉の部屋である。
「… 見たくない。」
何故だが、嫌な予感がした。
それでも、自分の体は言うことを聞かず勝手に動く。
律子の手が、ドアのぶに触れた。
(嫌だ……!)
心の中で強く唱えるが、自分の体はそれを無視した。
律子の姉の部屋は、本来ならばもう物置になっている。
そのはずなのに、すぐ目の前にある姉の部屋は彼女がついさっきまで使っていたかのような状態だった。
「嫌だ!…見たくない。」
忘れようとしていた全てを思い出しそうになり、両手で目をふさぐ。
全身の力がふっと抜けて、律子はその場にしゃがみこんだ。
手がわなわなと震えて、目を覆うつもりが殆どその役割を果たしてくれない。
(見たくない、見たくない。嫌だ…嫌だ…嫌だ……!)
必死でそう唱えるが、震える指の隙間から景色を覗いてみても何も変化はない。
「ここは一体どこ? 彼女の部屋はもうないはずなのに…」
目を覆ったまま、動けずどうしたら良いのかもわからない。
律子の頭の中に、恐怖心やあの日の記憶が蘇る。そしてそれが視界に現れてくるのでは
ないかと思うと尚更怖くなり、更に強く目を覆った。
その時、自分のすぐ背後から物音がした。ドアが開く音である。
誰かが、この部屋に入って来たようだった。
律子ははっとなり、慌てて前を向く。しかし、振り返ることはできなかった。
背後の人物は、そっと自分に近づき触れてしまうのではないかというくらいの距離で立ち止まった。
そして、その人物は自分の右肩にそっと触れた。
とんとん。
恐れていた背後の人物は、おびえる律子を安心させるように優しく肩を叩いた。
この温かい雰囲気、優しくてやわらかな指の感触。
律子の心は、ゆっくりと解きほぐされていった。
「お姉……!」
懐かしい感触、この感覚。きっとそうに違いない。 そう確信した律子は、すぐさま振り返る。

その瞬間、あの眩しい光が再び律子を包みこんだ。

ぱっと眼をあける。
すると目の前には、郁夫の姿があった。
驚いた律子はその反動で後頭部を背後の木に強打し、力なく倒れこんだ。
「だ、大丈夫ですか!?」
郁夫は優しく律子の体を抱き起こす。
「あぁ、…夢だったんだ。」
ぼんやりとつぶやいた律子の目には涙がうっすらと浮かんでいた。
「どうしたんですか…。」
心配そうに律子を見つめる郁夫。
律子はまだ夢の中と現実の間をさまよっている感覚で、ぼんやりと中空を見つめていた。
それから5分ほどすると、次第に視界が鮮明になってくるのが分かった。
漸く、夢の世界から完全に現実へと返って来られたらしい。
そして、今現在自分がどんな状況に置かれているのかがハッキリと認識できるようになる。
「あぁ! ごめんなさいっ!」
郁夫に抱きかかえられていることに気づくと、律子は慌てて上体を起こした。
頬を赤らめる律子を見た郁夫は、恥ずかしくなったのか目をそらした。
「実はお昼すぎくらいにここに着いてしまって…。目を閉じたら寝てたみたいです…・。」
すると笑いながら「良く寝ますね」と返答され、律子は更に頬を赤らめた。
「そういえば、こないだもスーツ姿だったように思うんですが、就職活動中なんですか?」
律子は自分の服装を見る。スーツを着ていたことは今言われて思い出すくらいで、
どうやらすっかり体に馴染んでいたようだ。といっても、やみくもに毎日就職活動をしているため、
なかなかこれを脱げる時間がないだけなのだが。
「あはは…。なんだか、恥ずかしいです。就活生なのにこんなところで寝て、しかも髪は崩れ放題で…」
そう言いながら、服に付いた葉や砂埃をはたく。
「なんだか、忙しい時にすみません。人と話せるのって、久しぶりだったもので…。」
郁夫は苦笑した後、「来てくれてありがとうございます。」と律子に軽く頭を下げた。
「そ、そんな! 私も最近家族以外の人と全然話す機会がなくて…。それに、郁夫さんの絵って
見ると、不思議と安心するし、…何だか懐かしい気持ちになるんです。」
「そんな風に言ってもらえるなんて…本当に嬉しいです。」
彼との会話で、ふと違和感を感じた。
なぜ、ずっと敬語なのだろう? 年上の人に敬語で話されると何だか申し訳なくなる。
「あの、少し気になっていたんですけど…敬語は辞めてもらえませんか?」
律子が苦笑いしながら言うと、郁夫は恥ずかしそうに
「これ、癖なんですよね…、俺の性格のせいです。頑張って直しますけど。」
ずっと敬語で話されているのも何だか堅苦しい。そう思った律子は、「お願いします」と笑顔で言った。
「ところで、ここの景色の絵、大分仕上がってきたんですよ。」
癖はそう簡単に直せるものではない。ぎこちなく話す郁夫に少し笑いを堪えながら
「本当ですか! 見せて下さい!」
と、身を乗り出して郁夫の鞄を直視した。
「その前に」
郁夫は鞄からスケッチブックを取り出す。それは、ここの景色を描いていたものよりも少し小さめだった。
ぽかんとした表情の律子を横目に、郁夫はページをめくる。
「これ、見て下さい。」
と言って、スケッチブックを律子に渡した。
そこには、一人の女性が描かれていた。
その女性は木に寄りかかって眠っており、とても安らかな表情をしていた。
目には薄らと涙が浮かんでいるが、彼女の表情も、周りの景色も、優しいタッチで柔らかく描かれている。
「何だか、見ていて安心する絵ですね。」
律子の心は不思議と温かくなっていた。

すると郁夫はいたずらにほほ笑んでから、 「この絵、誰でしょう?」
と言うと、律子を見つめた。
「え? 誰って、…」
絵の背景をみると、大きな木があり、女性はその木に寄りかかって目を閉じている。
そしてその周りには広大な景色が広がっており(この景色は簡単に描かれている)、まるでこの公園にそっくりだった。
「って、これもしかして…」
律子は再び頬を赤らめる。
それを見た郁夫は律子のリアクションに満足したように笑った。
「はい、ご想像の通りです。あまりにも心地よさそうに眠っていたので、つい。」
律子はもともと赤面症なことも相まって、頬だけでなく耳まで真っ赤になる。
でも、それと同時に嬉しさもじわじわとこみあげてきた。
(私、こんなに綺麗じゃないけど…)という本音はさておき。
「それでよければ、もらって下さい。その代わり、ここの景色は完成してから見てもらいたいんです。」
律子は絵を抱きしめて、強く頷く。
「待ちます! 完成した絵、いくらでも待ちます!」
まるで告白のようになってしまったことに、数秒経ってからふと気付き、
「あ、郁夫さんが大丈夫なペースで、という意味です。」
と、どぎまぎしながらも付け足しておく。
「ありがとう。」
二人は笑いあうと、そこから他愛もない話を始めた。
郁夫は最近行った場所、そこで見た景色や老夫婦の温かさ、恐らく学生であろう綺麗な女の子が
堂々と煙草を吸っている姿を見て衝撃を受けたことなど…。
律子は始め就活の愚痴を聞いてもらってばかりになっていたが、愚痴ばかりなことに気づくと
家族のこと、去年や一昨年の学校生活で楽しかったこと等、楽しかったことを話すように心掛けていた。
すると自然と心が明るくなって行き、今している就活というのも悪くないように思えてくるのだった。

そんなこんなで、気が付けば辺りは真っ暗になっていた。

「もう真っ暗だね。じゃぁ、今日はもうそろそろ帰ろうか。」
郁夫は名残惜しそうに、重たい腰を持ち上げる。
それにならって律子も立ち上がった。
「なんだか、郁夫さんと話しているとあっという間に時間が過ぎます。」
恥ずかしくも言いたくて、そんな律子はもじもじしてしまう。
「うん、俺も。」
返答を聞くと、驚きのあまりに律子は一瞬ぽかんとしてしまったが、次第に嬉しさが込み上げて行った。
それから、互いに頬をあからめつつ少しの間沈黙が広がる。
その沈黙は不思議と気まずいものではなく、とても心地よいものだった。
沈黙を破ったのは律子だった。
「あの、次はいつ会えますか?」
郁夫は「今日みたいに夕方からだったら、いつでも…」と良い、咳払いをしてうつむいた。
耳を見ると、少し赤くなっている。
自分と同じように赤面症な郁夫の反応を見て、律子は堪らなく嬉しい気持ちになった。
「会いに行きます! 毎日でも!!」
その返答を聞いた郁夫は照れながら笑った。

二人で公園までの丘を下る。
「公園の周りは人がいなくて危ないから、人通りの多い場所まで送るよ」と言ってくれ、
遠慮せず郁夫に送ってもらうことにする。
それからまた、二人で他愛のない話をしていた。
早く家に着いてしまうのはもったいないと、律子の歩幅は無意識に小さくなってしまう。
それでも、こんな時間はあっという間に過ぎて行くのだった。
「この辺で大丈夫です。今日は、本当に楽しかったです。」
「俺も。じゃぁ気をつけてね、橋 本 律 子 さん。」
そう言って軽く手を振り、律子の胸元を見ていたずらに笑うと郁夫は律子に背を向けた。
それから郁夫の背中が見えなくなると、律子ははっとした。
「そういえば、まだ私名乗っていなかった。なのに、なんで私の名前を知ってたんだろう?」
ぽかんとしながら、ふと郁夫が自分の胸元に視線を移していたのを思い出す。
律子は、その視線を追うように自分の胸元を見た。
『橋本 律子』
そこには今朝面接の時に使ったネームプレートが付いていた。
律子の頬は、真っ赤に染まる。恐らく、今日一番と言っても良いくらいに。
どうやら外すのを忘れたまま、ここまで来てしまっていたらしい。
「郁夫さんのばか〜!」
今日何回目の赤面だろうか…。叫んだ後、「自分の馬鹿…」と小さく呟くのだった。







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