色鉛筆-第1話-

ある晴れた日の午後。
外の空気はすっきりと爽やかで、めったに無いくらいの快晴である。
今はまだ冬だが、まるで突然春が来たかのように温かい日だった。
青い空の下、律子はその明るく爽やかな空とは対照的に、鈍よりとした空気を放っていた。
「・・・15連敗。」
彼女は現在就職活動中。特にこれといってやりたいことなど無く、これだけはやりたくないという仕事
だけは避け、片っぱしから選考に参加している。
しかしどこの企業もよこしてくるメールの末尾には「――心よりお祈り致します。」ばかりだった。
そして律子は今日も大きくため息をついた。

律子の足は家から20分程歩いたところにある公園へと向かっていた。
坂道をひたすら登ったところ、つまり丘の上に位置する公園のため、
そこからの景気は素晴らしいものである。昔は家族でよく花見をしに来たものだった。
しかしここ数年は、この坂を登るのが億劫で全くと言って良い程足を運んでいなかった。
公園に着くと、風の音だけが流れて行く。
花見の時期になると賑わうが、普段は人気が殆どなく静かな公園である。
律子は公園内の階段を上り、町並みを一望できる唯一の場所まで来た。
そして思い切り息を吸い込むと、叫んだ。

「ばかやろぉおぉーー!!!」

・・・少し、気持ちが晴れたような気がした。
『まぁ、たまには良いだろう。』そう思うと笑みがこぼれた。
ここは都心部から少し外れた都会と田舎の側面を併せ持つ郊外の地区である。
今までは田んぼが広がり、大きな建物はこれと言ってなく静かな場所だった。
しかし、久々に見てみると高層マンションや広大な敷地を持つショッピングモールが立てられ、
たくさんあった田んぼは減り、少しごちゃごちゃとしているような印象を受けた。
都会と化してきている地元を一望して、時の流れを感じ何だか少し切なくなった。

そして、何気なく横を向いてみる。
するとそこには、茶色いニット帽子を深く被った女の人がいた。
髪は短いが少し癖があり、外側に跳ねている。
女性とも男性とも見える、なんとも中性的な人だった。
木に寄りかかって座る彼女は、こちらを見上げていた。
呆れたような、今にもため息をつきそうな、そんな表情をこちらに向けていた。
「あ、あの! もしかして見てました?」
照れ隠しをしつつ、恐る恐る聞いてみる。
しかし彼女は、何も返答をせずそのまま元の向きに目線を戻した。
「ははは・・・。」
苦笑いをしながら、彼女の手に持っている物を見た。
スケッチブックである。そこには目の前に広がる景色が、色鉛筆で綺麗に描かれていた。
景色を見ながら真剣に描く彼女の姿はとても魅力的だった。
「絵描きさんなんですね。」
恥ずかしさが残っているせいで、出てきたのはか細い声だった。
彼女はまたしても応答しない。
話かけない方が良いのかもしれない。
しかし彼女の絵と、それを描く姿にすっかり魅了されてしまった律子は、
完成した絵を見たいと強く思った。
『この際だから、嫌がられても良い。もう少しここにいよう。』
そう思うと、律子は心地よい風に吹かれながら目を閉じた。

とんとん。
何やら、誰かに肩をたたかれる感覚が。
優しくて、心地よい。
ゆっくり目を開けると、そこにはさっきまで絵を描いていた彼女がいた。
「え・・・。」
慌てて周りを見ると、既に辺りは真っ暗になっていた。
「確か、昼ごろからずっとここに居ましたよね?」
初めて声を聞いた。さっきまで隣にいた彼女は驚いた表情でこちらを見ていた。
「私寝てしまってたんですね。何だか今日は温かかったもので、つい・・・。」
「確か途中、すごい大声で叫んでたので、少しびっくりしました。
でも、その後すぐに帰ったのかなと思ったら、まさか眠っているとは思いませんでした。」
そう言って彼女は優しく笑った.
「あれ? でも私、何度かあなたに声を掛けたんですけど・・・。」
律子が言うと、彼女は慌てて
「えっ、本当ですか!? 俺ってば、また・・・。」
「・・・また?」
きょとんとして聞くと、彼女は申し訳なさそうに言った。
「すみません。絵を描き始めると、周りの声が全くと言って良い程
聞こえなくなってしまうので・・・・。自分ひとりだけの世界になってしまうというか、これ癖なんですよ。」
それを聞いて、律子はそっと胸をなでおろした。
「あぁ、そうだったんですね。もしかして邪魔だったのかなって、少し不安だったんですけど・・・良かったです。」
「本当にすみません。ここの景色があまりにも綺麗だから、描いていて楽しくて。」
昼間は春のような陽気だったが、日が落ちるとまた冬の寒さが戻ってきたようである。
彼女は肌寒さを感じたのか鞄からマフラーを取り出し首元に巻いた。
「ここら辺に住んでいる訳ではないんですか?」
最近公園に足を運ぶことはなかったが、公園に来る人は大抵この近辺に住んでいる人である。
そのため、一度や二度見かけたことのある人が来ているということが多い。
しかし、この辺りで彼女のように絵を描いている人というのはまだ見たことがなかった。
「電車に乗ってどこか行ったことのない駅で降りようと、なんとなくここの最寄り駅で降りてみたんです。
そしたらこんなに素敵な公園があったので、描かずにはいられないと思いました。
ただ運動不足なもんで、ここまでたどり着くのに結構大変でしたけど」
「そうだったんですか! 何だか、嬉しいです。地元のことをそんな風に言って頂けて・・・。」
律子は彼女が抱える大きめなトートバッグに何気なく目を移した。
スケッチブックや絵描きに必要な道具がたくさん入っているのか、かさばっているのが見て取れた。
その視線に気づいた彼女は律子の期待を見抜いたようで、「見ますか?」と聞いてきた。
律子はその言葉に飛びついた。
「見たいです! さっきまで描いていた絵を、見せて頂けませんか?」
彼女は「いいですよ」と快く頷くと、トートから大きなスケッチブックを取りだした。
「まだ未完成ですけど。気にいった景色は、特に時間を掛けて描きたいなと思って。」
律子は彼女からスケッチブックを受け取った。
そこには目の前に広がる景色が、とても繊細なタッチで描かれていた。
色鉛筆のため全体的に淡い色ではあるが、それでいて芯の強さを感じさせる絵だった。
「綺麗・・・。」
口を衝いて出た言葉だった。
それを聞いた彼女は嬉しそうに頬を赤らめ、それを誤魔化すためにマフラーで口元を覆い隠した。
「言い方が悪いんですけど、都会のごちゃっとした建物とか田んぼとか、それらって
正反対の存在で、相容れないものだと思っていたんです。だけど、この二つを違和感なく同時に
存在させているのが・・・何だろう、嬉しいです。えっと、変なことしか言えなくてすみません・・・。」
彼女は首を横に振った。「ありがとう」と言うと、更に頬を赤らめているようだった。
そしてそれを誤魔化すように口元をマフラーで覆い隠した。
「自然を埋めてしまうのは、何だか嫌ですよね。
それに辺り一面が建物だらけなってしまうと、何だか窮屈に感じる。
だけど、建物も決して悪いものばかりではないと思うんですよ。
その町のシンボルになったりするものもあるし、それらは人々の心を豊かにすることだってできる。
それって、凄いことなんじゃないかなって。」
彼女の言葉を聞いて、律子は絵と実際に広がる風景を何度も見比べてみた。
「確かに、マンションも悪くないのかな。」そう思ったりもしたが、実際の風景はやはり
絵ほど美しくはない。実際の風景も絵のように淡く美しいものであれば良いのに。
そう思ったが、これは言わないでおくことにする。
そして彼女が覆い隠していた口元を再び見せた瞬間、冷たく強い風が吹き付けた。
すると律子の手にあるスケッチブックは音を立ててめくれ、何枚か前のページで止まった。
「これは・・・?」
そのページには、一人の女性が優しく微笑んでいた。
女性の顔は、彼女自身のようにも見えるし、別の誰かのようにも見える。
自画像のようなそうでないような、なんとも不思議な絵だった。
「幸せそうに、微笑んでいますね。」
律子も思わず微笑み、彼女を見た。
しかし彼女の表情はみるみると強張り、律子の手からスケッチブックを強引に取り上げると、
そそくさとさっきまで見ていたページに戻した。
何故だか呼吸が速くなっている彼女は、絞り出すように「昔の絵は、いいんです。」と言った。
それから唖然とした表情の律子に目を合わせると、ハッとしたようで眼を泳がせた。
「すみません。描いていると次第に描き方が変わっていくので・・・、かなり昔の絵って自分では
恥ずかしくて見られないんです。だから、つい・・・。」
ぺこぺこと何度も頭を下げる彼女につられ、「私こそすみません」と律子も同じように頭を下げた。
「見られたくない絵ってありますよね。・・・ごめんなさい。」
そう言いつつもあの絵は何だったんだろうか? 
無性に気になってしまう自分に嫌気がさすが、それでも彼女のことが
気になっている自分がいた。とても聞くことができるような雰囲気ではなかったが。
それから、少しの沈黙の後先に口を開いたのは彼女だった。
「俺、高野郁夫と言います。建物とか公園とか、日常の何気ないところにある風景を描くのが好きで。
もうしばらくこの公園に通おうと思うので、良かったらまた見に来て下さい。」
律子はぽかんとした。気まずい雰囲気をなくすための社交辞令だろうか?
そう思ったが、不思議と彼女にさっきまでの雰囲気は無くなっていた。
「はい! 他にも絵を見せて頂けますか? 見せられるものだけで構わないので・・・。」
その言葉を聞いて郁夫は笑顔で「もちろん」と答えた。
「今はこのスケッチブックしか持ってきてないので、今度他のを持ってきます。
良いところや悪いところ、色々アドバイスしてもらえると、助かります。」
「私なんかで良ければ・・・是非! 次はいつごろ来られるんですか?」
郁夫はスケッチブックをしまうと今度は手帳を取り出した。
ちらりと見えてしまったのだが、随分色々と書き込まれているようだった。
「えーっと・・・。3日後の昼か夕方くらいですかね。」
律子は頭の中で自身のスケジュールを思い浮かべる。
明日はK社の説明会、明後日はS社の筆記試験、し明後日は・・・
午前に一次選考!! 片っぱしから受けているせいで、日程は詰め詰めだった。
「なんとか、向かいます!! 絶対向かいます!!」
それを聞いた郁夫は「無理はしないで下さいね」と言いつつ嬉しそうだった。
律子もつられて嬉しくなる。これは何としてでも行くしかない。強くそう思った。
そして何気なく時計を見ると、時計の針は8を指していた。
「えっ8時!? もう帰らなきゃ。」
郁夫も腕時計を見ると、少し驚いた声をあげた。
「随分経ってたんですね。じゃぁ、そろそろ。今日は楽しかったです。」
そう言ってほほ笑む。
律子はその笑顔を見て頬を赤らめた。
「私も、楽しかったです。絵、楽しみにしています!」
郁夫に向って大きく頭を下げると、律子は公園を後にした。
新しい出会い、魅力的な人。嬉しくて律子の胸ははずんでいた。

そして家の近くまできてからふと疑問がよぎった。
「あれ、『郁夫』?」
ずっと女性だと思っていた彼女はどうやら男性だったようである。
あそこまで中性的な男性に出会ったのは初めてだった。
律子は今日の出来事や、彼の事を一つ一つ思い出してみる。
すると、胸が高鳴り、熱くなっていくのが分かった。





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