理想の『彼女』

 あるとき『彼女』は突然、それも頻繁に私の目の前に現れるようになった。
『彼女』…その名前は、高梨麗菜(たかなしれな)。
見た目は黒髪のロングで、前髪は瞼の上で綺麗に整えられ、
目は大きく瞳の色は澄んだ茶色である。
身長は私よりも10pは高く華奢で、透き通った声をしている。
優雅に堂々とあるくその姿はとても美しく、気が付けば彼女のことを目で追ってしまうくらいだった。
そんな彼女は、私が思うことを正に代弁してくれてた。
正に、私の理想とする人物だった。

 彼女に初めて出会ったのは、半年くらい前だろうか。
私は現在フリーター2年目の春、ホテルの客室清掃をしながら食いつないでいたのだが、
それだけでは苦しくなってきた為、掛け持ちのバイトを探していた。
アパートから徒歩10分くらいのところにある最寄駅の傍のコンビニに、毎週アルバイト雑誌が置かれる。
3種類もの雑誌を片っ端から手に取り、そこから自分に合ったバイトを探すのが習慣になっていた。
その日も私はコンビニに行き、雑誌を取って行った。
その際私は何も考えていなかったし、周りも何も見ていなかったと思う。
常にいっぱいいっぱいで、生きていくこと以外には何も考えない…ようにしていたのだから。
 …そんな時だった。
コンビニに、一人の女性が入ってきた。
柑橘系の甘酸っぱい香水の匂いがふわっと漂い、長い黒髪が靡いた。
私はたったその一瞬で彼女に心を奪われてしまったようだった。
別にバイセクシャルというわけではない。
誰が見ても彼女の虜になってしまうと思う。そう断言できる。
店内にいるすべての人々は、きっと彼女にくぎ付けだと思う。
私は周りの様子を確認する余裕もなくただ立ちつくし、彼女を見つめていた。
そんな彼女は買い物を済ませ店内を後にする際、一瞬私の方を見て悪戯に微笑んだ…、ような気がした。

 それからの日々も変わらず生活のことで頭を悩ませていたが、
合間合間に彼女の笑顔が浮かんでは消えて行った。
バイトを探している時も、清掃業務を行っている時も、夕飯をどうしようか考えている時も、
何度も、何度もだった。
そんな毎日を送って1週間が経った日のことだった。
バイトに出勤すると、リーダーの鈴木さんが突如招集をかけた。
着替えていた私は「はい。」と堅苦しい返事をすると慌てて着替えを済ませた。
「今日から久しぶりに新しい人が入ります。ゴールデンウィークも間近に迫っていて
忙しい時期ですが、教育と自分の仕事とを手際よくこなして下さい。」
リーダーの言葉に周りは一瞬「面倒くさい」といった投げやりな表情を見せるが、
それはすぐさま消え去り、「わかりました。」と返事が響く。
数分経ったのち、新人がドアをノックした。
…瞬間、私は時が止まったような感覚に陥った。
ゆっくりとドアから出てきた顔は、常に浮かんでくるあの『彼女』だった。
私は思わず目を見開いた。そっと胸に手をあてると、鼓動が高鳴っていくのが分かった。
「初めまして、今日からお仕事をさせて頂きます、高梨麗菜と申します。
清掃のお仕事は初めてなものでとても緊張していますが、よろしくお願いします。」
麗菜と名乗る彼女はそう言うと、深く頭を下げた。
すると、私を含む従業員全員がそわそわと覚束ない様子で頭を下げた。
「え、えー、それでは各自担当の階に向かってください。
あと、山下さん」
突如自分の名前を呼ばれ、私は慌てて返事をした。その声は何とも情けなく裏返っていた。
「本当は私がやってもよかったんだけど。高梨さんが希望するものだから…、
彼女の世話役、よろしく。知り合いだなんて、以外だわね。」
リーダーは眉間にしわをよせ、嫌に含んだ言い方をした。
他の従業員も、私を恨めしそうな目で見てくる。
どうやら皆、彼女と接触したがっているようだった。
彼女が私を希望してきたことに対して不思議だったが、未だかつて味わったことのない優越感に
眩暈がしそうな気分だった。
そんな時、透き通った声が私を呼んだ。
「山下さん。」
「は、はいっ!」と返事をすると、私は慌てて声のする方を向いた。
気が付けば彼女は私のすぐ真横にいた。
心臓の音を聞かれてしまわないか心配になる。そのくらいの近さだった。
彼女の長い髪がさらりと流れてきて、私の肩にかかる。
「今日は、よろしくお願いします。」
耳元で囁くように言う。
周囲の恨めしそうな視線を感じるが、私はそれに対応する余裕もなく、
彼女にはただ頷いて返すことしかできなかった。

「清掃作業ですが、まずシーツをはがす作業から入ります。」
彼女に見つめられ、緊張しながら覚束ない手つきで業務を行う。
その状態のままシーツを片付ける作業を終えると、次はゴミの片付け。
…正直、この作業が一番嫌いだ。
この部屋にはどんな人物がいたのか、そんなのは知らないが、知らない人間の
出したゴミに触れなければならないのは苦痛だった。
それでも、多くの人と関わることが億劫で裏の仕事を選んでいるのだから仕方がない。
すると、彼女は無言で私の傍に近づいてきた。
私は気づかないフリをしてせっせとゴミを片付ける。
…咄嗟に、手首を掴まれた。
驚いて振り向くと、困惑した表情の彼女が目の前にあった。
「ねぇ、嫌なんでしょ? 辞めちゃったら?」
…その言葉は、まるで私の本音をそのまま読み取ったかのようだった。
私は強引に掴んできた手を振り払った。
「…辞めてください。今は、仕事に集中してください。」
強く見つめてくる彼女の瞳に吸い込まれそうになる。
(本音を読み取ってくれた彼女なら、私を助けてくれるのだろうか?)
そんな甘い考えがふと頭を過ったが、首を何度も強く横に振る。
そして私は彼女の視線から不自然に目を逸らし、業務を続けた。
その後は淡々と業務の指示をし、彼女もまた淡々とこなしていくだけだった。

その日の夜も、私の頭の中には彼女がいた。
『ねぇ、嫌なんでしょ? 辞めちゃったら?』
その言葉が頭の中で轟いていた。
…嬉しかった。
彼女は、私に逃げ道をくれるかもしれない。
私を楽にしてくれるのかもしれない。
…しかし、なぜその時私は疑わなかったのだろう?
彼女が、私の本音を読み取ったことを。

気が付くと、彼女の姿を目にすることが増えた気がする。
ぼんやりと公園から青く茂った木々を眺めていた時、
スーパーで食材を買いあさっていた時、電車に乗っていた時…。
初めは彼女に話をかけることもなく、彼女もまた私に話をかけてくることはなかった。
それが、不思議と日を追うごとに彼女との距離が近くなっていくような気がした。
目が合うようになり、それだけで終わる。
それが今度は、目が合うと会釈をし合う。
それがまた今度は、目が合うと挨拶をし、そのまた今度は話をするようになる…。
私には友達なんていなかった。
両親はいるが、仲はあまりよくない。引きこもってばかりの私を邪険な目で見て来た。
そんな私に、突如友達ができた。美しくも、どこかミステリアスな、初めての友達。
彼女は私を同情してくれる。彼女は探るような、舐めるような奇妙な目で私を見てくる。
それがとても嬉しく。
そして私は今、辛い。だけど、とても幸せ。

彼女と出会って3か月が経とうとしている。
8月の最も暑い時期であり、繁盛期である。
相変わらずバイト先のパートのおば様方は、私のことをさげすんだ目で見て、
良くわからないタイミングで怒鳴り散らす。
リーダーは彼女を独占する私を白い目で見る。
掛け持ちのバイトは結局見つからないままで、私は重い溜息をついた。
リーダーはもうそろそろ良いだろうと、彼女を私と別の階に引き離し、そこを担当させた。
必要な道具を持ち、エレベーターに乗り込む。
すると、彼女とパートの人たち3人が慌てて駆け込んできた。
エレベーターが閉まると、沈黙が広がる。
それを破ったのはパートの多田さんだった。
「ねぇ高梨さん。あなた、どこ出身なの?」
「あなたみたいな子が、どうしてここを選んだの?」
「来てくれて嬉しいわぁ」
そういったような会話だった。
すると、会話の中に突然私の名前が聞こえ、ぼんやりとしていた意識がパッと鮮明になった。
小さい声で話しているようだが、丸聞こえだった。
わざと聞こえるようにしているのは何となく分かっていたが。
「可哀そうね、山下さんが教育係だなんて。ちゃんと教えてもらえた?
リーダーもなんで彼女に担当させたのかしら。納得いかないわよねぇ〜」
そう言って多田さんは他の二人に同意を求めた。
私は彼女がそれに対してどういう反応をしているのか、怖くて見ることができず、
ただ彼女らに背を向け、硬直していることしかできない。
「今日から別の階担当になったんでしょ? もしまだ分からないことがあったら、
あたし達に聞いてちょうだい?」
その言葉の後に3人組の笑い声が広がる。
私は強く手を握りしめた。…それしかできなかった。
それからも彼女らは飽き足りずに私の話で盛り上がる。
エレベーターはいつまでも止まらないと思えるくらいに、長かった。
「辞めちゃえば良いのにね。」
多田さんの仲間の1人がそう言った。それも、声を小さくせず聞こえるように。
私は気づけば汗をかいていて、その一粒がぽろっと床に零れ落ちた。
…その時だった。

「ふざけんじゃねぇよ。」

重く、低く、透き通る声が響き渡り、瞬間、3人組は黙り込んだ。
「大人しく聞いてればペラッペラと!! 彼女が言い返してこないからか!?
お前らにはそれしか娯楽が無いんだろうな!! 本当に、あたしよりも寂しい奴らだよ!!」
そして更に、目を疑う行動を彼女はやってのけた。
3人のリーダーだった多田さんの頬を、平手打ちしたのである。
それからすぐ彼女担当の階にエレベーターは到着した。
彼女は3人組をそれぞれ一瞥するとエレベーターから降りて行った。
その後、エレベーター内に取り残された多田さんらは、それぞれの階に到着するも
降りることなくただ呆然としていた。

バイトを終えると、彼女の声も無視して誰もいない公園へと直行した。
驚きと、悲しみと…様々な感情が入り交じり、周りに誰もいないことを確認すると、
一人で嗚咽を漏らした。
「くっ…うぅ…。」
一しきり涙を流すとすっきりはしたが、気持ちは晴れない。
彼女が私を庇ってくれたのは、すごく嬉しかった。
しかしそれと共に、不安の影はそこか私の胸にまとわり続けていた。
そしてこの事件があってから、私は誰かに監視されているような、
不可解な出来事に遭遇するようになった。

季節が夏から秋に変わろうとしていたある日、私は朝から体中が重く、
どうも夕飯を作る気にはなれず、コンビニに弁当を買いに行った。
アルバイト雑誌を貰いに行っていたコンビニである。
食べ物を購入し、コンビニから出た瞬間、左側から視線を感じた。
しかし、視線を感じた方向を見ても、ただ暗闇が広がっているだけだった。
不気味に感じ早足で自宅へ向かう。
その際も、ずっと後ろに誰かがついてきているような気がしてならなかった。
アパートの入り口に立つと、左右、後ろを確認する。
ここまでずっと付きまとっていた気配は不思議なことになくなっていて、誰の姿もなかった。
私は安堵の溜息を漏らすと、自宅に入り、カギを閉めた。
玄関と隣り合わせのキッチンを横切ると、6畳の小さい部屋がある。
…ふと、その部屋のドアから明かりが漏れていることに気付いた。
「あれ…。消したはずなんだけど…。」
恐怖心が一気に湧き上がる。勝手に手が震え、収まらないので震えたままドアノブに手をかけた。
そして、ゆっくりと引いた。

一瞬、全身鳥肌が立つのが分かった。
そこには、黒髪ロングで長身の、美しくも不気味な彼女がそこにいた。
なぜ?
ドアも、窓もすべて締め切ってカギをかけた筈だった。
侵入するには、ピッキングか、ドアをぶち破るか…。
しかし、彼女の様子を見るに、そのどちらの方法を使ったわけでも無さそうだった。
「な…ん、で?」
震える私の様子を気にかけることなく、彼女はゆっくりと近づいてきた。
「辞めたいんでしょ?」
あの時のように、耳元で囁かれる。
私は思わず彼女を突き飛ばした。
「なんで…? どうして…?」
恐ろしくなり、部屋から出ようとするもドアが開かない。
私は無駄な抵抗と知りつつ、狭い6畳部屋の隅に逃げた。
「あなたは綺麗だし、私はあなたが好きだけど…」
彼女はまた、ゆっくりと近づいてくる。
「怖いよ!!」
私は、目を閉じて叫んだ。
彼女は私の両肩を強く掴み、逃げ場を無くそうとする。
薄目を開けると彼女の瞳が私を捉え、私は更に逃げ場を失った。
「怖い? 可笑しなことを言うのね。」
そう言うと甲高く笑った。
かと思うと今度は急に表情をなくし、再び瞳が私を貫いた。
「私は、あなたよ。」
彼女は無表情のまま、低いトーンで言った。
言っていることの意味が分からず、私はただ震えていることしかできない。
そうでありつつも、彼女の目線からは逃れられずにいた。
「私はあなたの理想とするもの、羨望、怒りや憎しみの感情…
あなたが表に出すことのできない、負の感情からできているの。」
「う、嘘…」
彼女は更に肩を強く掴んで、脱力した私がしゃがみ込んでしまいそうになるのを阻止した。
「嘘じゃない。…私はあなた。あなたが求めれば求める程、私はあなたのそばにいる。
ねぇ、あなたは今、どうしたいの?」
目に涙が浮かぶ。それでも、彼女は真顔のまま、私の目の、奥深くの部分をのぞき見るように
顔を近づけて来た。
私は目を閉じることも忘れ、ただただ硬直している。
手を動かそうにも、まるで金縛りにでもかかってしまったかのように、体が言うことを聞かないのだ。
「…あなたの口からちゃんと聞きたいと思ったのだけど…それも無理そうね。
だけど、あなたの望んでいることは分かっているわ。…それを実行してあげる。」
そう言うと彼女は私を開放し、その瞬間私は床にへたり込んだ。
何が何だかわからない。
「彼女が私…? 性格も姿も、何もかもが違うじゃない。
私の負の感情って、何それ…。」
ふと気配がなくなったのに気付き、部屋中を見渡してみる。
…すると、ドアが開く音も、閉まる音も全く無かったというのに
彼女の姿はどこにも無かった。

彼女が姿を消してから3日が経った。
身体的にも精神的にも疲れ果てた私は、バイトのシフトを減らしてもらった。
その際、リーダーから説教を食らったのは言うまでもない。
今日は久々の休日。しかし、気持ちは全く晴れなかった。
多少の貯金はあるが、それもいつまでもつか分からない。
正直、今は新しいバイトを探す気力も起きなかった。
もうそろそろ、全てを投げだして、逃げても良いのだろうか。
私の頭に、『死』の一文字だけが羅列する。
…そんな風にして布団の中でぼんやりと正午を迎えた時、突然着信がなった。
バイトだろうか? …それ以外の人から着信が掛かってくることはまずない。
憂鬱な気持ちで携帯を手に取り、画面を開いた。

『母』

画面にはそうあった。
母からの着信…。それは一体何ヶ月、いや何年振りだろうか。
憂鬱な気持ちに拍車が掛かるが、10秒程経っても鳴りやまないため、
仕方なく出ることにした。
「…もしもし。」
「ねぇ、あんた…。」
久々の電話に母も困惑している様子だった。ならば何故掛けて来たのか。
怒りが込み上げてくるのを抑え、「何?」と聞く。
「あんたの知り合い? 長い髪で背の高い、高梨麗菜と名乗る子が突然やってきて泣き出したの。」
私は硬直した。…彼女、が…。
「あなた、そんなに辛かったのね…。」
あぁ、母は私の苦しみを漸く分かってくれたんだ。
ずっと孤独だった心が満たされていく。
私は、親がいつか私を理解してくれると信じていた。
私の過去の過ちのことも…。
これで、何とかやっていける気がする。
…そう思った時だった。
「…辛いのはあたしだって同じよ。
お願い、私を見て。私を愛してって、うわ言のように繰り返してきて…。
落ち着いてって言っても収まらないのよ。…もぅ、なんとかして頂戴!!」
するっと手から携帯が落ちた。
それからも、母はひたすらに話すことを辞めない。
受話器からは、「ねぇ、聞いてるの!?」と、そればかりになっていた。
私は、電源を切った。
…死のう。
それだけ、強く思った。

母からの電話はそれきり無くなった。
彼女は、私がしたくてもできなかったことをしてくれたらしい。
確かに、彼女は私なのかもしれない。
だけど、どの道その結果がこれだ。やはりやらない方が良かった。
私は今、駅のホームに立っている。
私が死んだら、多くの人に迷惑をかけて、それだけで終わりだろう。
構わない。
楽になりたい。
もう疲れたから。
「…さようなら。」
小さく呟くと同時に、電車の近づく音がする。
私はホームから飛び降りた。


―――――――――

「…っ」

ふと横を見てみる。

「怖い」
そう思う間もなく、
すぐ目の前に運転席が見え、私は恐怖のあまりに目を閉じた。



「洋子!!!」

声が聞こえた気がする。
三途の川でも渡っているのだろうか…。

目を開けると、私は誰かに抱えられていた。
黒い髪のロングで、甘い柑橘系の匂い…。
「気が付いたのね。」
私を抱えるのは、彼女だった。
駅のホームにいたと思うと、瞬時に景色が別のものに切り替わった。
私の部屋である。
私を布団に横たえると、彼女は苦い表情をした。
「何で、助けたの…。それとも私は死んでるの…?」
胸に手を当ててみる。…心臓は正常に機能しているようだった。
生きていることを知るとため息が出たが、心のどこかで安心しているのも事実だった。
「あなたは、死にたくないって思った。だから、助けてあげたわ。」
そう言ってから、彼女は涙を流した。
「どうして、本心と逆のことばかりするの? どうして、逃げてばかりいるの?
確かに、私はあなたを助けようと思ったわ。あなたが辛いと、私も辛いから…。
でも、あなたは決して自分から行動に移さない。常に助けてもらえることを待ってる。」
彼女の涙が、私の頬に零れ落ちた。
彼女が辛そうにしていると、私の胸の奥もぎゅっと握りしめられたように痛くなる。
…やはり、彼女は私なんだ。
「あなたが望む限り、私はずっといる。だけどもう、悩みから解放されたい。
私じゃ、どうにもならないの。私じゃ、あなたを助けられない…。
自分でなんとかしなきゃならないの…。それは、あなたが一番良く分かっているはずでしょう…。」
彼女の手は震えていた。
これまでの行動も、恐らく私が自分から動けるようにするためだったのだろう。
私はそれを無視し続けていた。ずっと、逃げていたのだ。
私は彼女の背に手を伸ばし、強く抱きしめた。
ふと体を離すと、その顔は母に変化していた。
「洋子…ごめんね…。私は、ずっとあなたの本心と向き合えずにいた…。
あなたは高校時代、クラスメイトに大けがを負わせて退学になった。
私は大けがを負わせたという事実しか知らなかった。
あなたはいじめられていたクラスメイトを庇ったら、加害者グループの子たちに
酷い言葉の数々を浴びせられた。
それも、あなたが自分に自信が持てなくなってしまうほどに。
だからそれが許せなくて、あなたは手を挙げてしまった…。
高梨麗菜という子が、泣きながら全てを話してくれたわ。」
…いつから実物の母と、高梨麗菜が重なっていたのかは分からないが、
私は薄々気づいていたのかもしれない。
彼女の姿は、もちろん彼女は私の負の感情であったことに変わりはないのだが、
同時に私の求めるもの…『母』の幻影でもあったのだ。
高梨麗菜は母の幻影でもあったから、母は彼女の言うことを素直に受け入れられなかった。
私と同様に、自分自身と、娘の本心と向き合うことができずにいたのだ。
「私はあなたの苦しみも分かろうとしないで…本当に、本当にごめんなさい…。」
母はそう言って泣き崩れた。
私も一緒になってただただ涙を流し、嗚咽を漏らした。
今なら彼女と、…私自信と母の本心と向きあい、素直に受け入れられるような気がする。
私は母の温かさを心と体で感じ、まるで重たい鎖から開放されたようだった。

―気が付くと、あれから3か月がたっていた。
もうすぐ、今年が終わる。
高梨麗菜の姿はすっかり見なくなっていた。
…というより、私が見えないようにしているのだ。
彼女に頼りすぎないように。
そう言いつつも、心のどこかでは彼女のことを求めているため、
彼女はきっと私の傍にずっといて、私の事を見ているだろう。
もしかしたら母も、未だ高梨麗菜のことを求めているのかもしれない。
だけど、私たちは今、自分の足でしっかりと歩けている。

清掃のバイトを辞める際、高梨麗菜の事をそれとなく聞いてみると、
不思議なことに従業員は皆彼女の存在を覚えていなかった。
…と言うよりも、初めから知らないといった様子だった。
そして私は思い切って接客のバイトを始めた。
裏の仕事よりも案外表の世界の方が人々の心も明るいような気がする。
良い環境に巡り合えただけなのかもしれないが、陰湿なことをする従業員はいなかった。
もちろん、全てが全て上手く言っているわけではない。
だが少なくとも、以前よりは大分楽になったと思う。
その日一日の出来事を母に何となくメールしてみると、数分後に返事が返ってきた。
『良かったね。その調子で頑張って』
未だどことなくぎこちなさは残るが、文から母の愛情が伝わってくる。
私は嬉しくて、バイトから自宅への道をスキップして帰っていた。
『ありがとう、高梨麗菜。全てはあなたのお陰だと思う。
あなたは私と母でもあるけれど、きっとあなた自身でもあったはず。
あなたは、私の理想の人です…。』
心の中でそう思うと、かすかに彼女の笑顔が見えたような気がした。




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