木々の声─海の言葉-第3話-

今日は日曜日、唯一家族全員が揃って夕飯を食べることができる日である。
ハンバーグの美味しそうな匂いが、キッチンからリビングにまで届いてきた。
母は毎週日曜日の夕飯には特に力を入れて作っている。
父は何の仕事をしているのか、それは自分はよく分からないが、とても忙しい
仕事であることは分かる。
それは何故かというと、父が帰ってくるのはいつも遅く、そして転勤は多く、
家族がまともに揃って食卓に着く事は日曜日と祝日くらいしか無いからである。
現在の父は、実の父親ではない。母の再婚相手である。
名前は羽田 孝平(はねだ こうへい)、年齢は恐らく、愛より7歳程上だ。
海は現在の父のことを大切に思っている。
…しかし、それは好きであるかは別、として。
「海ー、ちょっとご飯よそってくれる?」
「うん、分かった!」
海は小走りにキッチンへと向かい、茶碗を取り、ご飯を丁寧によそう。
「海はもう3年生になったのよねー…。早いなぁ。ついこの前まで赤ちゃん
だったのにねぇ。」
「それは言い過ぎだよ。今日だって漢字テスト満点だったんだよ!」
「そうね、海はもう立派よね。えらいえらい!」
そう言うと、母は海の頭をわしわしと撫でた。
「うんっ! …ね、あい。大好きだよ!」
「私もっ!」
海は母のことを「お母さん」とは呼んだりしないのだが、その事に特にこれといった
理由はない。
海の母である羽田 愛(はねだ あい)はとても優しく、海はもっと幼い頃、
よく「あいと結婚するッ!」と言ったものであった。
愛はまだ若く、恐らく27、8くらいである。
とても料理が上手く、家事を手際よくこなすのには誰もが感心する。
いつも笑顔で、そしてテキパキと行動し、時間がある時は買い物に出かけたりと、
家事をこなす半面、やはり年相応の若さが見受けられる母親であった。
しかし海は、そんな愛が時折見せる曇った表情に気づいていたのだ。
海はテレビを見ている途中でふと洗濯物を干している愛を見た時、愛は何の感情も
宿していないような目をしながら、ただぼんやりと日々の『義務』をこなしていた。
ハキハキとしていて常に輝いた目が、信じられないくないに色を無くしていたのだ。
お父さんが帰ってくるのが遅いことに不満と不安を感じているのではないかと、
心配で仕方がない。
一度そのことで何か思うことがあるんじゃないかと聞いてみたこともある。
しかし、
「何言ってんのー? 私はこの通り元気だよー? それに、海はそんなこと
全然心配しなくていーのっ。早く友達作ってたっくさん遊びなさい!」
と返されるだけであった。
確かに、人の心配よりも自分の心配をすべきかもしれない。
お父さんの仕事の関係で転校してばかりなのでなかなか友達ができず、
学校で海はいつも孤立してしまうばかりである。
「でもどうせ、また転校することになるんだ。」
海は無意識にそう呟く。
そう。だから、自分の心配なんかしたって何の意味もない…
「どうしたの? 海。まだここに来て1ヶ月半でしょ。…ここは確かに、
昔ずっと住んでた所とは違って都会だけど…。でも、ここの方が楽しいことと
たくさん出会えるかもしれないじゃない!」
愛は笑顔で真っ白なご飯を頬張る。
海はその笑顔に答えるようにいつも笑顔でご飯を食べるのだが、物思いに浸って
しまっては、そう簡単には気持ちを切り替える事なんてできない。
再婚する前は、ずっと田舎の静かな町に暮らしていた。
海はその静かな町が大好きだった。
今の街では少し歩けば直ぐそこにコンビニがある。それはとても便利なことだけれど…。
田んぼがあり、鳥の鳴き声が聞こえ、木々が風に揺れる音がする、
そんな穏やかな暮らしが…幸せだった。
愛が再婚してからは、引っ越すことが多くなり、昔住んでいた地の友達には
自然と忘れられてしまってた。それを悲しむ暇もなく、気づけばまた引っ越し。
引っ越し先は決まって都会、都会、…都会。
父の勤める仕事が何なのかは、本当に知らない。聞いても、教えてもらえない。
端から見れば、『幸せ』を絵に描いたような家庭だったかもしれない。
実際は、我慢の限界である。
「昔住んでた所に…帰りたい…。」
思わず口をついて出た言葉が、これだった。
言ってから愛の顔色を伺ったが、愛は表情を崩さずにただ美味しいと言って
ご飯を食べ続ける。
返事が来なかったことが不愉快になり、海の言葉は腹の底から次々と飛び出して来た。
「ねぇ…今のお父さんは本当にお父さんなの…? 何でいつも遅いの?
僕、お願いしても遊んでもらえたことなんて全然無いよ。
あいだって、お父さんが帰って来たら…いつも僕のことなんか見えてないみたい。
いつもなら言わない時間帯に寝ろって言う。
それにあいは時々凄く寂しそうな顔をする…。
僕も辛いけど…あいの辛い顔を見る方が、もっと辛いよ…。」
ガタンッ。
途端に、愛が箸をテーブルに置いた。その音に驚き、海はビクッとする。
俯いたまま、愛の顔を見ることはできなかった。そのまま沈黙が続く。
…その沈黙を破ったのは、…愛だった。
海は、顔を上げる。
…しかし、愛の驚くべき形相を見て、空いた口が塞がらなかった。
「っうさいわねぇ!! アンタは何も気にしなくて良いの!!
黙ってれば良いのよッ!!」
愛は箸を床に投げつけた。その行動に、海はまたビクッとする。
ひたすらに怒鳴り散らされるが、結局その真意は全く伝わってこない。
海は眉間に皺を寄せ、愛の目を見つめた。
「…海に全てを話した所で、何の意味も無いの。だからね…何も気にしなくて
良いのよ。」
そう言って愛はニコっとして見せる。
「そうねー。強いて言えば、海の笑顔を見ることが私の救いよ。」
結果的には、前と同じ返事をされただけである。
でもこれが、『仮面』を取った愛の素顔なのかもしれない。
「分かったよ…、ごめんね、あい…。」
そう言うと、さっきまでの愛の発狂した姿が、まるで幻覚であったかと思わされる
ほど、元に戻っていた。
「さ、美味しいご飯が冷めちゃうよ〜。海のお魚、いただきっ!」
愛の前ではこれ以上この話しを追求することを止めた。
…けれど、海は決して諦めた訳では無いのだ。愛に聞いても無駄ならば、時間を
かけて、こっそりと、愛の本当の気持ちを、…そして現在の父親の真意を…探る。


ある日の晩、
海は寝たフリをしながら、リビングからする物音に耳を澄ませていた。
お父さんは本当に帰ってくるのが遅いらしく、なっかなか帰ってこない。
こんな状態を続けて恐らく3時間になる。
流石に今はもう物音に耳をすませるほどの集中力は無く、睡魔との闘いであった。
「駄目だ…。寝ちゃ駄目…。まだお父さんは帰って来ていないんだから…。」
あまりの眠気に自然と目が潤んでくる。
海は目を強く擦り、強く目を閉じてから思いっきり開いた。
それでもやはり眠気の方が海の意志よりも強いらしい。
何としてでも眠気に勝たなくてはならない海は、布団から出た。
そして拳を握り、自分の頭をポカポカと叩く。
ガタッ。
…一瞬、リビングの方から音がした。しかし誰かが帰ってきたという気配はない。
ドアが閉まる音とは全く別の音のようにも感じられた。
リビングの光がドアから漏れているので、愛はきっとまだ起きているのだろう。
海はそっとドアを開け、リビングを覗いてみた。
…そこには愛の後姿があった。
テーブルには本が何冊も置いてあるが、お父さんを待っている間の時間つぶしの
為の物のようだ。
しかし、全くページを捲る音がしないし、動きも無い。
海は不思議に思い、リビングに入った。
「あい? 何してるの?」
聞いてみるが、全く返答が無い。
不安に思った海は、愛の近くに行き、顔を覗き込んだ。
愛は頬杖を突き、転寝をしていた。
コクッと頭が勢いよく動くと、頭がテーブルに当たってしまうのではないかと
海は焦った。
…しかしものの見事に寸前で頭がまた元の位置に戻る。
海はほっと胸を撫で下ろした。
「んん…。あぁ…ぅ…。」
すると今度は唸り始めた。
「あい? どうしたの…?」
心配になって声をかけてみるが、当然返事は無い。
数秒してから、また愛は唸り始めた。
愛の表情を見ると、…海は思わずそれから目を逸らした。
それはとても儚く、もろく、愛が直ぐにでも居なくなってしまうのでは無いかと
不安を掻き立てるものであったからだ。
海は愛の手をそっと優しく取った。
愛は海の手を強く握り返した。
「…さみ……」
寝言だろうか? 愛が何かを言おうとしている。
それも、何とか搾り出すように。
「良いよ、言って。」
海は優しく言った。
「……さみ…し…い…」
え? と、海は聞き返す。
愛は表情を変えないまま、しかし再び無言になった。
「あい…、寂しいの?」
海が聞くと、その問いかけに返事をするかの様に、愛の目から涙が零れ落ちた。
…海は少し俯いて、目を閉じた。
再び強い眠気が襲ってきたのだ。
これは本当に現実なのだろうか? 本当は夢なのでは…?
その判断すらもままならなくなる程に、深い眠りの中へと、引き寄せられて行った。


結局あの日の夜、お父さんは帰って来なかったらしい。
それでも愛は、
「時々帰って来ないこともあるのよ。一生懸命お仕事してくれてるんだから、
感謝しなくちゃねー!」
と言って、笑顔を見せる。
そしてあの日の夜、海は愛の隣の椅子に座り、テーブルにうつ伏せになって
眠っていたらしい。
愛はその夜のことを全く覚えていない様だった。
もちろん、あの時のことは話していない。
そして翌日、愛が近所の人と会話をしている間に、海は急いで愛の鞄を探し始めた。
愛は家からすぐそこにある通りにいるのだから、今は手ぶらに違いない。
基本的には鞄に、『あれ』があるはずなのである。
リビングに行き、テーブルの上を見るが鞄はない。
椅子の上にも、当然テーブルの下にも無い。
床一面を見渡してみるが、やはり見あたらない…。
鞄が置いてある場所で他に思い当たる場所なんてあるだろうか…。
愛が外に出るときに玄関まで行ったのだから、もちろん玄関には無かった。
今の時間帯は午前9時。愛が起きるのは7時、いつもはお父さんの準備を手伝うのに1時間…
だが今日の場合は空白の一時間、それから一緒に朝食を食べてテレビを見て
歯磨きをしてゴミ捨てに行って…。
「あそこだ。」
海は急いで寝室に向かった。
正直、寝室に入ることに抵抗があったが今はそんな場合ではない。
寝室のドアを空けると、ベッドの上にはやはり鞄があった。
空白の一時間で、鞄の在処が変わっている可能性もあったが、どうやら大丈夫
だったようだ。
内心ガッツポーズを浮かべつつも、油断はせずに一端玄関を確認する。
…まだ大丈夫だ。
鞄の中を見てみると、お目当ての携帯があった。
少しドキドキしていたが、幸いロックは掛けられていなかったのでほっとする。
この携帯に、とーさんの携帯の電話番号が入っているはずだ。
「とーさん」―それは海と血のつながった前の父親のことである。
とーさんも仕事の関係で帰ってくるのが遅かったけど、今のお父さんとは違う。
帰ってきたら咄嗟に抱きしめてくれ、心がほっとするような優しい微笑みをくれた。
もちろん愛に対しても同じように。
何というのだろうか、…今のお父さんは「何か」が違う。
前のように暖かな温もりを感じられることもなければ、ましてや愛情なんて
これっぽっちも感じられない。
正直、海からみれば、愛に対する愛情すらもこれっぽっちも感じられないのだ。
とーさんとお父さんの違いである「何か」とは、きっと愛情のことだろう。
もちろん、そんなことを愛に言えるはずもないが。
…例えどんな理由があろうとも、以前の夫の電話番号を消しているとは思えない。
…何故ならば、愛にはまだ『未練』があるように感じられるからである。
そんなことは、海からすればよく分かることだった。
アドレス帳を見てみると、やはりそこにはとーさんの電話番号とアドレスがあった。
そして、一体何故海がとーさんの電話番号を探していたのか。
それは、愛と離婚した理由を聞くためである。
…たった8歳の息子に、真面目に話してくれるかは分からない。
適当にあしらわれてしまう可能性だってある。
それでも、何故愛があんなにも寂しい思いをしなければならないのか?
大好きなとーさんだからこそ、そのようなことはハッキリとさせて終わって
もらいたかった。
海はとーさんの電話番号とメールアドレスをメモ用紙に急いで書いた。

…退屈な小学校の教室。
転校してきたばかりの海には、まだ友達がいなかった。
…しかし、友達がいないという理由はそれだけではない。
海は他の生徒と比べると、明らかに思考が異なるからだ。
その為か、まともな会話は成立せず、仲間はずれにされてしまうのである。
それでも、海は無理にその『集団』の中に加わろうとはしなかった。
先生に何度も皆とうち解けるよう促された。もちろん、先生の言うことに
聞く耳を持ったことは、一度たりとも無いのだが。
だから、先生にとって海はいわゆる『問題児』なのである。
幸い、先生は愛にそのことに関して話したことは無いらしい。
今の時代、モンスターペアレントと呼ばれる親が多い。
そのため、海が自分の状況を親に言わないことを良い事に、何事も無いかのように
愛に振舞っているようである。
授業参観の時、海はクラスに溶け込んでいる風を装っているのだから、
愛も気づく筈が無かった。
多分愛がモンスターペアレントになる可能性は低いとは思うが、先生側からすれば
厄介な事は避けたいのだろう。
──そして今、海は職員室の前に来ていた。
時間は10時50分。本来なら、現在は授業をしているはずである。
しかし、海は職員室の前にいた。今日は何としても、学校を抜け出さなければ
ならない日なのである。
早くとーさんと連絡を取りたい。
それなら家電から掛ければ良いと思うかもしれないが、家には愛がいることが多い。
隠れてこそこそと話すよりは、もっと余裕を持って話したいのだ。
明日からゴールデンウィークなので、学校はもちろん休みになる。
そうすると、今日を逃せば連絡を取るのに1週間待たなければならなくなってしまう。
この状況を変えるというのは、賭けと言ってしまっても良いかもしれないが、
少しでも早い現状打破を望む海にとって一週間という期間は耐え難いものなのだ。
担任の先生は、生徒に配る資料を取りに行くため一端職員室に来ていた。
休み時間に言いに行くと、職員室には多くの先生がいる。
変に目に留まりやすい上、言いづらい。
だから、海はこのタイミングを選んだのだ。
ガラッ。
先生の背後に立ち、ゆっくりと声を掛ける。
「…先生。」
先生は振り向くと、一瞬、嫌そうな顔をした。
…それもそうだろう。先生が海に対して苦手意識を持っていることは明らかだ。
「…海くん。今は授業中だよ? 勝手に抜け出しちゃ駄目じゃない。」
先生はキツめの口調で言うが、海は全く動じなかった。
「先生。…今日は体調が悪いので、早退します。」
ベタな嘘である。…バレバレだろう。…それでも、構わなかった。
「……。ちゃんと、保健室には行った?」
やはり、バレているに違いない。だがそんなことはお構いなしに、海は即答する。
「はい。行きました。」
数秒おいてから、先生は「そう。」とだけ言った。
そのまま睨めっこが続いたので、海はさっさとその視線から逃れようと、
「さようなら」とだけ言って背を向けた。
先生は海をどのように扱った良いのか分からないのだろうか。
あるいは、胆に面倒臭いだけなのだろうか。
それは分からないが、海の背に向かって何も言うことは無かった。
海は直ぐに教室に戻り、荷物をランドセルに詰め込み、教室のドアに手をかけた。
…その時、後頭部に何かが当たったのを感じた。
パフッとした感触だったので、特に痛みはないが、手で触ると少し違和感を感じる。
そして床に何かが落ちる音がした。

振り向き、床を見ると、…そこには黒板消しが落ちていた。

Mainへ戻る

Topへ戻る